南京日記1937年11月20-21日

南京日記1937年11月20-21日

  18時に、支那新聞の号外が出た。支那政府の重慶移設の発表だった。それは、南京ラジオ放送局からも発信された。同時に、南京は最後の血の一滴までもって防衛されるべき事が発表された。

 11月21日 防空壕は心配の種だ。水位が段々上がりつつあるのだ。ここしばらくは使えないだろう。排水する時間もない。それで、もっといい防空壕を探している最中だ。実際、町の中には既に、かなり安全な防空壕があるらしい。家の者がみな使える壕が見つかれば、こんな良い事はないのだが!

  発電所の管理人Pai氏が我が家に居候する許可を求めてきた。許可!第一技術者のLoh Fatsen氏も、妻と使用人を引き連れてここに住む事を希望している。Tranceocean通信社がKutwo船に移るので校舎がまた空っぽになる。そこに住んでもらおう。

  13時半にChung Shan Matoに車を走らせた。Kutwo船のランチに行き、私の荷物の様子を見る約束を14時にしていた。16時にやっとランチが到着した。Kutwo船の貨物室にある荷物を確認する時間は、10分しか与えられなかった。しかし、今朝早く、最後に運んだ箱を見つけて、私は満足だった。ビールジョッキを片手にトランプに興じる乗客達に短い別れを告げてから、忙しなく催促の汽笛を鳴らすランチに乗って、下関に戻った。これで、町を退去する術はなくなった。

  現在フォン・ラメツァン男爵の後釜として警察を束ねている、ベーレンシュプルング博士を訪ねた。空襲時の第二警報の後や夜10時以降も咎められることなく車で外出する許可証をもらう為だ。ベーレンシュプルングは明日漢口に発つ予定だ。元帥の命令を受理したのだ。彼は私に名刺を渡し、警察長官の王固盤将軍の元に明日行くよう指示した。彼が既に出立していなければの話だが。