南京日記1937年11月23日

南京日記1937年11月23日

  今日は55回目の誕生日だーおめでとう、ラーベ!プレゼントはまず、どんよりとした天気だった。それもまた良し!お母ちゃんからは電報ととても素敵なマフラーが贈られた。どうもありがとう!残念ながら、マフラーは届かなかった。トラウトマン夫人が持ってくるはずだったが、彼女の説明を聞いてもあまり利口にならなかった。マフラーはどうやら小包にして郵便局に持ち込まれたようだが、郵便局はちゃんと仕事をしなかった。仕方がない!

  今朝5時にローレンツ騎兵大尉の電話で叩き起こされた。彼は前線から戻ったところで、Kutwo船に乗りたいのだが、と言う相談だったが、船は夕べ出港してしまった。7時には東亜ロイド編集部のフルダーマン氏とヴォルフ・シェンケが呼び鈴を鳴らした。二人とも上海からやって来たところで、大使に会いたいそうだ。彼らはヒュルターの車で蕪湖に向かった。そこでKutwoに追い付こうというわけだ。8時にチャンの妻を鼓楼病院に連れて行った。かわいそうに、大変な苦しみようだ。

  下関駅には、ひっきりなしに傷病兵が到着していた。スミス医師は志願学生を駅に送り、患者を受け入れさせた。それで私は車を貸さねばならない。
ハン氏が良い知らせを持って来た。彼の支那人の友だちが私にトラック2台、100樽のガソリンに200袋の小麦粉を寄付してくれるそうだ。この誕生日の贈り物は一番気に入った。これがあれば、委員会がこれから絶対に必要とする食糧、車両として使える。この知らせが本当でありますように!

  17時:先の外務大臣、現在外務省書記長のチャン・チュン氏宅にてお茶会。50名ほどの米国人、欧州人以外にも多くの高官(Nationen)が参加。町防衛の責任者Tang将軍、警察長官王固磐、市長の馬氏など。Big Ideaとして提案されたのは、我々欧州と米国残留者が毎晩8時から9時の間国際クラブで落ち合うこと、そして支那の指導者たち、又はその代理の人たちと接触する事だった。その意見は良いと思う。その様な「円卓」を、我々は世界大戦時に北京に作っていた。

私の素晴らしい誕生日の贈り物、即ち運転手付きのトラック2台とガソリンに小麦粉からは、運転手無しの空のトラック1台に若干の物資だけが残された。残りは、閉ざされている城門Ho ping Menの何処かにあるらしい。