ヴォルフ・シェンケの日記から:南京最後の日々

ヴォルフ・シェンケの日記から:南京最後の日々

黄色い前線の旅。ドイツ戦争ジャーナリストの観察、オルデンブルク/ベルリン 1943年刊行、60頁以降より抜粋
 
  私が南京に到着した時に残っていた人たちは、最後まで持ち堪える任務を帯びたドイツ大使館員3人と、過去の南京訪問の際にいつも客人として迎えてくれたジョン・H.D.ラーべ氏だった。その他にもCarlowitz & Co.のクレーガー氏、シュペアリング氏が残留していたが、彼らには会わなかった。

  どの人も、来るべき南京陥落について酷く悲観的な未来を描いていた。皆、町に残るのが生死に関わることをよくわかっていた。しかしその理解が、日本軍の砲兵隊や爆撃機による攻撃への恐れを最小限に抑えていた。この危険は然し乍ら、これから遁走するであろう支那の軍隊から予期されるべき事柄と比べれば、何でもない事だった。起こり得る可能性のある事柄は全て吟味されていた。そして、その結果はいつも勇気を奮い立たせてくれるようなものではなかった。1927年に南京入城するなり外国人を殺害し、外国人女性を強姦したのは、蒋介石率いる国民党の軍隊ではなかったか?

  四川の兵士が前線に行進するのも見たが、彼らは過去既にそうであったように、半分盗賊だった。これまでの戦争では、支那の特に遁走する敗残兵が人民を襲い、強奪、略奪を企てるのは日常茶飯事の事であった。日本軍に打ち破られ、風紀が乱れた軍隊が南京に退却するのを想像して見るがよい。彼らの怒りと憎しみを白人に向けるのではあるまいか?彼らの心に潜む古い外国人への敵対心が怒涛となって溢れ出るかもしれぬ。

  10年前に広東で起こったあの出来事が、走馬灯の様に蘇る。それは、欧州人には想像も出来ぬほどの猟奇的な残忍な記憶だ。己れにもそのような未来が待ち受けているかも知れぬ懸念に、勇敢に抵抗することは難しい。しかし南京残留組は、敢えてそれに抵抗していた。
 
  支那外務省の記者証を手に入れなければ、記事を電報で本国に送ることさえ不可能だった。大使館の残留者と長い時間協議した結果、私は漢口へ更に向かうべきであるとの一致を見た。
  シャルフェンベルク氏は私が持参した手紙を(上海から)ザッと読み、重要でない部分を除いて重要書類を新しい封筒に入れた。それをKutwo船に乗船中のトラウトマン大使に届けるべく、蕪湖に携えて行く予定であった。

  時間が差し迫っていたが、私はどうしてもラーべ氏に別れを告げたかった。フュルターが車で本道を抜け「ジーメンス町」へ連れて行ってくれた。南京在住のドイツ人は、この支那ジーメンス社の土地をそう呼んでいた。そこには、主にラーべ氏が開校に貢献した小さなドイツ人学校もあった。ジョニー・ラーべは書斎のタイプライターの前に座って日記を書いていた。ラーべは仕事の為に南京に残ったのではなかった。南京に残った20万人もの非戦闘員のために難民区域を設定する為だった。上海では、ジャキノー神父が同じような区域を設置していた。

  私は彼の計画に賛同しかねた。何故なら委員会には、先ずは支那の、そして後には日本の兵士の立ち入りを阻止できるような権力と、区域内の治安を保つ能力を擁していないから。ラーべは言った。「僕は30年以上こんな外国で生きてきて、人生の殆どをここで過ごしたんだ。だから、今この仕事に生命を賭ける価値はあると思う」

  彼は短い会話の間でさえ、彼独特のユーモアを繰り出した。しかし今の私には、引かれものの小唄にしか聞こえなかった。私にはこの町を去る立派な理由があった。それにも拘らず、間違いなく死に正面から対峙せねばならぬラーべやヒュルターを見捨てて、自分だけが安全な場所に逃げ込むような気分になった。