南京日記1937年12月8日

南京日記1937年12月8日

  昨日の午後、うちのNumber-One-Boyのチャンは、妻を鼓楼病院から連れ帰って来た。彼女はまだ全快はしていなかったが、この緊急時、子供達のそばにいてやりたいからだ。(使用人の)苦力は悲しそうだ。彼の家族は町から40マイル程の地点にいた。彼は家族は迎えに行けなかった。厨房係が病気でその仕事も引き受けなければならなかったから。この事を私に告げる者はいなかった。私はてっきり、家族もとっくの昔にここにいると思っていた。今となっては、残念だが遅すぎる。
 
 2年程前に、トラウトマン博士は北戴河でのお茶会で私にこう挨拶した。「ああ、南京の市長さまがいらした!」私はこの冗談に ー この時私は副支部長だった ー 少し気を悪くした。だが、今この冗談は本当になってしまった。

もちろん、欧州人が支那の市長になるなど、普通ならあり得ない。然しこの数ヶ月間我々とずっと一緒に働いてきたマ市長が昨日退去し、市当局が行うべき行政上の質問やら仕事やら、その他一切合切の権限が市長の同意を持って難民区域の委員会に委託されてからは、私は本当にActing Mayor市長代理になってしまった。ラーべよ、実にけしからん事ではないか!

  四方八方から難民が所謂安全区になだれ込み、今や通りは平和時よりも活発になった。最も貧しい者達が通りを彷徨う様は、見る者の涙を誘う。

  避難所を見つけられなかった家族は、暗くなると寒気にも拘らず家々の角や陰に身を寄せ、他の者は通りに直接身を横たえた。我々は安全区の更なる発展の為に必死に働いている。然し、我々の区域から撤収しない軍隊の侵害は止まらない。撤収を急ぐ様子もない。郊外の建物という建物を焼き払い、難民を我々の所に追いやっている。何の見返りもなく大掛かりな救援活動に勤しむ我々を、間抜けと思っているようだ。

  外国人の中には、支那人は抵抗を演じているだけで、面子を潰さぬように交戦の真似事をするだけだ、と言う者もいる。私の意見は少し違う。町防衛責任者のタン将軍が、兵士や一般人の犠牲を全く省みぬことを怖れている。

  私はこれから両替店を開く予定だ。小銭が不足するからだ。知り合いの、支那政府の役人2人が手伝ってくれることになっている。

  我々は皆一様に自暴自棄になりかけている。支那軍司令本部が一番の厄介事だ。支那兵士達がつい先日立てられた境界線の旗を一区域分、持ち去ってしまった。区域は縮小されなければならない、留保された区域は大砲と防御設備に必要だと言うのだ。

これのせいで全ての計画がおじゃんになってしまうかもしれない。日本軍がこれを嗅ぎ付けたら、躊躇なく爆弾の雨を降らせるだろう。そうなったら、安全区は一転して大危険区になってしまう。明日朝早く、境界線を点検しなければ。こんな卑劣な行動は全くもって理解出来ない。この区域は11月22日に支那政府が最終的に承認したものなのだ。
 
1937年12月8日夜、支那報道機関の記事より:
 1週間前の昨日、即ち1937年12月1日、市長のマ氏は、南京安全区の国際委員会に対し、安全区一切の行政の責任を負うことを要請した。委員会と全ての会員と職員は、数人の苦力とトラック運転手を除き、自発的にボランティアで活動している。