南京日記1937年12月7日

南京日記1937年12月7日

   昨夜は車の音が盛んに聞こえてきていた。今朝早く、5時頃、たくさんの飛行機が家の上を低空で飛んでいった。それは、大元帥の別れの挨拶だった。昨日の午後私が訪ねたHuang大佐も出立していた ー 大元帥の命令だ!

  貧民と、所謂安全区で彼らと生活を共にする決心の少数の欧米人だけが残っていた。
  あちこちから貧民達が家財道具と寝具を携えて我々の地区に逃げて来るのが見える。彼らは最貧民層ではなくその前衛隊だ。少しでもお金を持っている人々は、地区内の友人や知り合いを頼って幾ばくか支払って匿ってもらっているのだ。

  本当に持たざる人々はこれからやって来る。彼らの為に学校や大学は開かれていなくてはならない。大簡易宿泊施設に収容し、炊き出しをして食事も与えなければ。我々に与えられた食糧のうち4分の1のみが、やっと地区に運び込まれていた。軍が常にトラックを接収してしまうので、運搬車両が絶対的に不足しているのだ。

今日の午前中に軍にトラック二台、持って行かれてしまった。戻ってきたのは一台だけだ。塩2トンを積んだもう一台のトラックはまだ帰ってきていない。我々は車両の行方を追っているところだ。大元帥の本部からは、今しがた追加2万ドル支払われた。これで手に入った金額は合計4万ドルのみだ。約束は10万ドルだったのだが、これで一応満足しなければならぬ。大元帥は寄付金の分割払いについては何も関知していないようだ。だから、彼に文句を言っても仕方がない。

  明日には城門が閉ざされ、残った米国人は全員乗船することになっている。今日私はジーメンスに電報を送り、満期になった生命保険料を支払って貰えるように頼んだ。

  上海ラジオは、トラウトマン博士が漢口に再び到着した事を報せていた。彼が提案した平和仲介はラジオに寄れば、蒋介石に拒否されたらしかった。ローゼン博士からの内密の情報では、既に記した通り、大元帥に許可されていたのだが。その間にも、町では防衛戦の準備は着々と進められており、兵士達は最後の一兵卒まで戦うことを主張している。

  城門前の家は放火され、火事の地区にいた住民には安全区への避難が呼びかけられた。ということは、安全区は非公式に認知されたのだ。クレーガーが南門前にあるシュメーリングの家から今しがた戻って来た。家はこじ開けられ、盗難に遭った状態だそうだ。それで実利的なクレーガーは、まず残った飲み物を運び出したそうだ。

  18時の記者会見にマ市長は現れず、外国人も半分くらいしか出席しなかった。他の人達はもう乗船、退去したに違いなかった。

  城門前、城壁内にある建物も放火される噂が流れて、南門の貧民の間でパニックが起きている。何百もの家族が我々の地区になだれ込み、暗い中、避難所を見つけられずにいる。寒さに打ち震え涙を流しながら女子供は寝具の包みに腰下ろし、宿を探す夫や父の帰りを待っているのだ。
   今日 我々は2117袋の米を運び込んだ。明日まだ門が通れるかどうか、甚だ疑問だ。