南京日記1937年12月13日

南京日記1937年12月13日

  日本軍は昨夜城門を幾つか占領したが、町の中にはまだ侵入していない。
  我々は委員会本部に到着するとすぐ、ものの10分とかからぬ内に国際赤十字協会を設立し、私は幹部会員になった。そして数週間前から協会設立に心を砕いていた我々の友、ジョン・マギーが会長に就任した。

  委員会員の3人が外務省、国防省鉄道省内に設けられた軍病院を視察。その悲惨な状態を確認した。戦闘があまりにも激しくなったので医師も看護師も逃亡してしまい、患者達だけ助けもなしに取り残されたのだった。我々はかなりの数の職員を呼び戻した。大至急取り寄せた赤十字旗が外務省の病院にはためくのを見て、勇気が湧いたのだ。

  死者と負傷者が外務省入路に並んで横たわっており、庭はChung Shan Lou通りのように、軍用品が所狭しと散乱している。入口には手押車に形のない塊が放置されており、死体と見えたそれは足を微かに動かすことで、まだ生命が宿っていることを示すのだった。

  我々は本道を注意深く走った。辺りに転がっている手榴弾を踏んで吹き飛ぶ危険があるからだ。様々な一般人の死体が横たわる上海通りに入り、進入する日本軍に遭遇した。その小隊のドイツ語を話す医師が我々に、日本軍司令官が2日後に到着することを告げた。彼らは北に向かって行進していたので回り道して車を飛ばし、3小隊、600人の支那兵士に武器解除をさせ、助け出した。武器解除に抵抗する者もいたが、遠く行進して来る日本軍を見て、結局は武装を解いた。我々はこの人達を外務省と最高裁判所に収容した。
  委員会員の2人は更に車を走らせて、鉄道省近くで出会った400人の支那兵士を武器解除させた。
  何処からか、我々を標的にする者がいる。銃弾の掠める音は聞こえるが、何処から来るのかわからない。その内、1人の支那将官が馬上で騎兵銃を振り回しているのが見えた。恐らく、彼は我々の行動に同意出来ぬのだろう。彼の立場からすれば、許し難いことであろう。我々にはこうするしか他に方法がないのだ!もしこの安全区境界で戦闘が起これば、逃亡する支那兵士達は間違いなく安全区に雪崩れ込むだろう。そうなれば安全区は非武装地帯とは言えず、日本軍の標的にされてしまう。徹底的に破壊されるだろう。

  そんな訳で完全に武装解除された軍隊は危険とはなり得ず、日本軍に戦争捕虜として扱われるだろうという希望がある。我々を狙撃した将官がどうなったかは知らない。我々の車両技師、オーストリア人のハッツ氏が、彼から騎兵銃を取り上げたのを見ただけだ。

  本部に戻ると、入り口はごった返ししていた。長江に逃ることができなかった多数の支那兵士達が、ここに集まっていた。彼らを武装解除させた上で安全区のあちこちに収容した。シュペアリングが真面目な厳しい表情でマウザー銃を ー 完全に空の状態の ー を手にして正面入口に立っていた。武器は整理して積み上げられ、数を確認する作業を彼は注意深く見守っていた。これらは後で日本軍に引き渡されるのだ。

  町を一周して始めて、破壊の全容を掴んだ。100~200メートル毎に死体が転がっている。一般人の死体だ。私の見立てでは、背中に銃痕があった。ということは、人々は逃げる際に後ろから撃たれたのだろう。

  日本軍は10人から20人の集団で町の中を行進し、店を略奪している。この目で見なければ、到底信じられぬことだ。店の窓や扉を破り押し入って、気に入った物を奪っている。どうやら食料が不足しているようだ。ドイツパン屋キースリンクのカフェが略奪されるのも目撃した。ヘンペルのホテルも押し入られ、Chung Shang とTaiping Roadにある店は殆どが被害に遭った。日本兵は略奪品を箱ごと運び出し、力車を雇って盗品を安全な場所に運ぶ者もいた。

  我々はフォルスター氏と共に、彼が宣教師をしているTaiping Roadの英国教会を訪問した。教会隣の一軒に爆弾二発が着弾していた。家自体は既に略奪されていた。フォルスターは彼の自転車を持って行こうとした日本兵数人の不意を突いた。彼らは我々を認めるなり、大急ぎでずらかっていった。日本軍の巡回に出会い、この土地が米国のものであることを示し、略奪者をすぐに退去させるように要請した。然し、彼らは我々に冷笑を浴びせるだけだった。

  我々が出会った200人ほどの支那人労働者達は、難民地区で集められて日本兵に繋がれて引きづられていくところだった。我々の抗議は悉く黙殺された。
  法務局の建物からは、400~500人ほどの人々が繋がれていった。恐らく彼らは射殺されたのであろう。暫くして機関銃の一斉射撃の音が聞こえてきたから。我々はこの悪行に愕然とし、硬直している。

  負傷者を収容している外務省には、我々は立ち入りを禁止された。支那人医師と看護師は建物に拘束された。
  日本軍に捕まる前に125人ほどの支那難民を空いている家に収容することに成功した。我々の隣りの家から14~15歳の少女3人が誘拐されたと、ハン氏が報告してきた。ベイツ医師も、安全区の家に収容された難民さえも略奪に遭ったと訴えた。様々な方法で日本軍兵士は私の自宅にもやって来た。しかし、私が鉤十字の腕章を彼らの鼻先に突きつけながら現れると、直ちに立ち去るのだった。それに引きかえ、米国旗は嫌われていた。委員会員のソーン氏の車からは米国旗が強奪された。

  我々は朝6時からずっと出歩いている。各々の犯罪を正確に記録するためだ。ハンは家から一歩も出ようとしなかった。日本軍将校達は大体は礼儀があり公正だが、一部の下士官の振る舞いは最悪だ。その上、飛行機からプロパガンダのビラを飛ばして、一般人は人道的に扱われる、などと宣伝するのだ。

  疲れ切って絶望して、我々は5番地の本部に戻った。町の至る所が困窮している。我々は自家用車に米袋を詰め込み、飢えに苦しむ数百人がいる法務局の建物に向かった。負傷者と共に外務省にいる人々がどうやって生きているか、私には謎だ。委員会本部のある中庭には、もう何時間も7人の重傷者が横たわっていた。やっと、彼らを外来患者として鼓楼病院に収容できた。その中には下腿を撃たれた子供もいる。10歳くらいの男の子だ。呻き声ひとつ上げない。